日本財団 図書館


 

的かつ守門神的要素が伺われる。しかし、その形状は日本で見慣れた毘沙門天像とは大きく異なり、四つん這いに蹲る邪鬼の上に乗り、上半身保で下半身に裳を纏い、ターバンや装身具をつけるインド貴人の姿で表されている。また、清静な合掌のスタイルは仏への帰依を表明しているかのようで甲冑を身に継い厳しい表情で邪鬼を踏み負かす一般の毘沙門天像との表現上の差異が際立つ。むろん両者の相違は、毘沙門天東漸の長い道程の中で変化したものであろう。けれども、私は双方の形態上に若干の類似点を見いだす。それは、バールフトの多聞天像も一般の毘沙門天像も、乗り物的関係と敵対的関係の差はあるものの、邪鬼の上に乗っている点である。インドでは、神が立ったり坐ったりする座は、その神の働きを助けたり出自や属性を反映したりする。邪鬼はヤクシャの一形態であり、バールフトの邪鬼もその上に乗る多聞天日クベーラがヤクシャの大将であることを暗示している。思えば、日本の最初期の四天王像のうち法隆寺金堂の多聞天像(図?)や当麻寺金堂の持国天像も四つん這いに蹲る邪鬼の上に乗っている。日本で四天王の邪鬼と尊像が敵対的関係になったのは、例えば東大寺戒壇院四天王像(図?)のように奈良時代以降であるが、その問題は中国の神将形像と獣座との関係を含め今後の連載の中で眺めてみたい。ただ、邪鬼と多聞天との乗り物的関係は、本連載のテーマである兜跋毘沙門天像と地天女との関係に本質的な視座を与えてくれる。つまり、バールフトの像のように邪鬼が多聞天の出自や属性を示すのなら、兜跋毘沙門天像の地天女毘沙門天の出自や属性、あるいはその働きを助ける役割を担っているのではないか?、という点である。もともと地天(Prthivi=地神)とは古代インドの『リグ・ヴェーダ』において、山岳を担ぎ、樹木を支え、雨水を流通させて地を豊穣すると讃えられている。前記したように、兜跋毘沙門天がサイノ神=山の神としてなぞられるのなら、地天は彼らを支える役割を本来的に所持していると思われる。古代インドでは地天の造形は一般化されなかったが、ガンダーラの仏伝浮彫の中で取り入れられ中央アジアで広まり、東アジアにおいて広範に図像化される。例えば、『別尊雑記』に載る智泉本を基にした堅牢地神(地天)の図像(図?)は、胡帽に似た鳥冠を被った武将姿の堅牢地神が邪鬼の上に坐っており、明らかに兜跋里沙門天像とオーバーラップする。また、その下の地神后(地天女)は雲(あるいは草)上に坐し花瓶を捧げている。これらの図像は、主婦愛の構図でもある兜跋毘沙門天像の地天としての役割を彷佛とさせる。その意味では、兜跋毘沙門天像は確かにその根源的なイメージにおいてインドの最初期の多聞天像と密接に繋がっているのである。………<和光大学講師>
注(参考文献)
注? ネリー・ナウマン『山の神』一九九四年言叢社
注? 中沢新一『道祖神』『世界宗教大事典』(自修山折哲雌)一九九一年平凡社
注? 源豊宗『兜跋毘沙門天像の起源』『仏教芸術』第15冊一九三〇年
注? 松本栄一『敦煌画の研究』一九三七年東方文化学院東京研究所
注? 松本文三郎『兜跋毘沙門天像』『東方学報』京都10冊一九三九年
注? 佐々木剛三『兜跋毘沙門天像についての一考察』
『美術史』38号一九六〇年、猪川和子『地天に支えられた毘沙門天彫像』『美術研究』229号一九六三年、たなかしげひさ『鳥冠を頂く地大毘沙門の年代と系統』『仏教芸術』41号一九六六年
注? 宮治昭『兜跋毘沙門天像の成立をめぐって』『東洋美術史における西と東−村立と交流』国際交流美術史研究会一九九二年
注? 田辺勝美『兜跋毘沙門天像の起源』『古代オリエント博物館紀要』13巻一九九二年、同『ギリシア美術の日本美術に付する影響』『東洋文化』75東大東洋文化研究所一九九五年
注? 宮治昭『インドの四天王と毘沙門天』『日本の美術三一五毘沙門天像』(著松浦正昭)至文堂一九九二年

072-1.gif

?『別尊雑記』中堅牢地神図像

 

 

 

前ページ   目次へ   次ページ

 






日本財団図書館は、日本財団が運営しています。

  • 日本財団 THE NIPPON FOUNDATION